近藤勇 | ||
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出身 | 武州多摩 |
生没年 | 天保5(1834)〜明治元年(1868) | |
武芸・流派 | 天然理神流 | |
よみ | ながそねこてつ | |
愛刀 | 長曽爺弥虎徹 | |
役職 | 新撰組局長 | |
お勧め映画 | 燃えよ剣 | |
拳が口に入った逸話がある 各隊士からの人望が厚く 奉公に出ていた土方に天然理神流を教えた師匠、 板橋にて処刑される |
芹沢 鴨 | ||
出身 | 常陸国水戸 | |
武芸・流派 | 剣術・神道無念流 | |
生没年 | 天保3(1832)〜文久3年(1863)9月16日 | |
よみ | ||
愛刀 | 不詳 | |
役職 | 浪士総代、隊長、巨魁隊長 | |
初代局長、いつも酔っていたという声も、とにかく自分が1番、豪放磊落で勇など気にもかけなかったという。新撰組の隊の基礎作り上げた功績は大きいがその正確から」の為か近藤勇・山南啓介・原田左之助・土方歳三・沖田総司らが画策し八木邸で泥酔中に襲撃を受け平山五郎と共に暗殺された。 |
新見 錦 | ||
出身 | 常陸国水戸 | |
武芸・流派 | 剣術・神道無念流 | |
生没年 | 天保7(1836)〜文久3(1863)年8月 | |
よみ | ||
愛刀 | 不詳 | |
役職 | 隊長、副長 | |
入隊前より芹沢と交流があった新見は入隊後も芹沢の右腕的存在だった。京都守護職より芹沢の断が下ると土方・沖田を両翼とする近藤は遂に隊の権威を持って新見の横暴を押さえ非行の数々を上げ祇園の貸座敷山緒で詰腹を切らせ 芹沢を追いつめて行く、芹沢襲撃の数日前だったとか。 |
土方歳三 | ||||
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出身 | 武州多摩 | ||
武芸・流派 | 天然理神流 | |||
生没年 | 天保6(1835)〜明治2年(1869) | |||
よみ | いずみのかみかねさだ | やまとのかみみなもとのひでくに | ほりかわくにひろ | |
愛刀 | 和泉守兼定 | 大和守源秀国 | 堀川国広(脇差) | |
役職 | 新撰組副長 | |||
お勧め映画 | 燃えよ剣 | |||
剣が鬼のように強いから鬼の副長と呼ばれたという説もあるが新撰組内での規律や隊士達に それを守らせようとするの事が鬼のように厳しっかったことから鬼の副長と呼ばれ 奉公先(薬屋)で近藤勇と出会い天然理神流を学んだ。 梅を好み読んだ俳句や鍔等にそれが表れている。名刀と呼ぶに値する刀に執着を示し 仙台住用恵国包・相州綱広などの名刀を青年期より携えていた。 蝦夷地(今の北海道)にて死す |
山南敬介 | ||
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出身 | 陸奥国仙台 |
武芸・流派 | 剣術・小野派一刀流、北辰一刀流、天然理心流 | |
生没年 | 天保4年(1833)〜慶応元年(1865) | |
よみ | せきしんおきみつ | |
愛刀 | 関信沖光 | |
役職 | 副長・総長 | |
江戸に出た山南は学問に励むと共に飯田町の道場で小野派一刀流を修める。その後近藤勇に試合で敗れ弟子となる。慶応元年脱走を図るが沖田らに追跡され捕縛、勅中法度に触れた為切腹を申し付けられ沖田解釈の元切腹した。 |
沖田総司 | ||||
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出身 | 武州多摩・江戸説もある | ||
武芸・流派 | 天然理神流 | |||
生没年 | 天保13(1842)〜明治元年(1868) | |||
よみ | きくいちもんじのりむね | かしゅうきよみつ | ||
愛刀 | 菊一文字則宗 | 加州清光 | ||
役職 | 一番組組長 | |||
お勧め映画 | 燃えよ剣 | |||
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永倉新八 | ||
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出身 | 武蔵国江戸 |
武芸・流派 | 剣術神道無念流・心形刀流 | |
生没年 | 天保10(1839)〜大正4(1915) | |
よみ | はんしゅうじゅうてがらやまうじしげ | |
愛刀 | 州住手柄山氏繁 | |
役職 | 副長助勤・二番組組長 | |
四谷村生まれ。函館新撰組では番兵取り締まりをやっていたと福知山藩記録にあり明治2年5月弁天台場にて降伏 |
斎藤 一 | ||
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出身 | 武蔵国江戸・本籍は播磨国明石 |
武芸・流派 | 剣術・無外流・小野派一刀流・天然理心流 | |
生没年 | 弘化元(1844)1月1日〜大正4(1915) | |
よみ | ||
愛刀 | ||
役職 | 副長助勤・三番組組長、御陵衛士、会津新撰組・隊長 | |
元地元年1月池田谷騒動・慶応3年12月油小路花屋敷の天満屋騒動、鳥羽伏見の戦いにて負傷。 甲州勝沼戦争に参戦後負傷隊士率いて会津に先発する。合津で体長となり各所転戦後に 合津と運命を共にして降伏。維新後は東京高等師範学校に奉職し東京教育博物館の看守に転じ東京女子高等師範学校 で庶務係兼会計係をつとめ明治42年に退職。晩年は死期を悟ったのか自分の体を床の間に運ばせ息を引き取ったという。 |
松原忠司 | |
出身 | 播磨国小野 |
武芸・流派 | 柔術(関口流?) |
生没年 | 天保8(1837)年〜慶応元年(1865) |
よみ | かしゅうじゅうふじわらともしげ |
愛刀 | 加州重藤原知重 |
役職 | 組頭・副長助勤・柔術師範・四番組組長 |
お勧め映画 | なし |
播磨国小野藩士の家に生まれた松原忠司は安政の初め範から「徘徊御免」の処分を受け、事情は不明ながら領外へ追放される。 安政4年に大阪での柔術道場の経営を始め文久4年に壬生浪士組に加入する。8月の政変に出動した際、坊主頭に白鉢巻を締め 大薙刀を持った姿は武蔵坊弁慶を彷彿させたという池田屋事件では土方歳三隊に属し出動、11月の第1次行軍録では7番大砲組の組頭に就く 12月の長州征伐では軍資金調達のため勇、谷兄弟らと大阪に下がっている。 第1次行軍録作成から半年の間に失策を犯し切腹を企てるが傷が癒え隊に復帰したときは 小荷駄方の平隊士とされたが後に死亡する(傷の化膿が原因だったかもしれない)。 |
武田観柳斎 | ||
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出身 | 出雲国母里 |
武芸・流派 | 甲州流軍学 | |
生没年 | 〜慶応3年(1867) | |
よみ | えちぜんじゅうひたちのかみねうえ | |
愛刀 | 越前住常陸守兼植 | |
役職 | 組頭・副長助勤・軍事狩り・軍奉行 五番組組長 |
|
お勧め映画 | なし | |
文才があり弁舌、松江藩の医生だったという、軍学に秀でた者のいない新撰組で近藤勇や土方歳三に重要視されたそうだ。 慶応二年に幕府が軍制を和式からフランス式に切り替えると武田の隊内での権威は急落、新撰組も洋式の軍制となり 旧式な甲州軍学の武田の影が薄くなっていくのは成り行きだった。 鍛冶取橋で斎藤一に橋を渡りざまに背後から袈裟懸けに斬られ最初の一の太刀で絶命した。 |
井上源三郎 | ||
出身 | 武蔵国多摩郡日野 | |
武芸・流派 | 剣術・天然理心流 | |
生没年 | 文政12(1829)〜明治元年 | |
よみ | おくしゅうしらかわじゅうかねつね | |
愛刀 | 奥州白河住兼常 | |
役職 | 副長助勤・六番組組長 | |
池田谷騒動では土方と共に隊を率いて祇園方面の探索に当り、遅れて到着し斬り込んだ。 無口で温厚な性格だったと伝えられるが鳥羽伏見の戦いで眉間に銃弾を受け戦死した。 |
谷三十郎 | |
出身 | 備中国松山 |
武芸・流派 | 剣術・直心流・神明流・神陰流 槍術・種田流 |
生没年 | 天保3(1832)年〜慶応2年(1866) |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 組頭・副長助勤・大銃頭 七番組組長 |
谷家長男各流派を修め万太郎と大阪に道場を構える。左之助も門人だったことから師匠となる。 池田谷騒動や禁門の変後の残党狩りや大阪石蔵屋への切込みと活躍するが祇園石段下で急死する。 死因は殺害とも卒中とも言われている |
藤堂平助 | ||
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出身 | 武蔵国江戸 |
武芸・流派 | 剣術・北辰一刀流、天然理心流 | |
生没年 | 弘化元(1844)〜慶応3年(1867) | |
よみ | かずさのすけふじわらかねしげ | |
愛刀 | 上総介藤原兼重 | |
役職 | 副長助勤・八番組組長、大銃頭、 御陵衛士 |
|
文久3年8月18日に政変に出動し御所の南門を警護する。元地元年の池田谷騒動では大奮闘し額に負傷する。しかし伊藤甲子太郎の影響を受け御陵衛士となって分離し、かつての仲間たちと七条油小路で死闘を繰り広げて戦死する。 |
三木三郎 | ||
出身 | 常陸国新治郡志筑 | |
武芸・流派 | 剣術・新道無念流 | |
生没年 | 天保8(1837)〜大正8(1919) | |
よみ | ||
愛刀 | 不詳 | |
役職 | 副長助勤・九番組組長 | |
伊東甲子太郎の実弟に当たる元知元年10月に伊東と共に入隊。 慶応3年3月兄と共に分離脱退し御陵衛士となり新撰組と敵対する。 同年11月油小路事件では急報を受け駆け付けるが新撰組の待ち伏せを受け薩摩藩邸に逃げ込み保護される12月の近藤狙撃事件に関与したとされているが真意は定かでない。 鳥羽伏見の戦いをへて維新後は警察署長に就任するが退職後に茨木県石岡市に住み大正8年7月11日に没した |
原田左之助 | ||
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出身 | 伊予国松山 |
武芸・流派 | 槍術・種田流 | |
生没年 | 天保11(1840)〜明治元年(1868) | |
よみ | こふじゅうおきとも | |
愛刀 | 江府住興友 | |
役職 | 副長助勤・十番組組長・小荷駄奉行・靖共隊・副長 | |
美男にして怜悧で傲慢、隊で唯一の妻子持ちだった。 松山で武士と揉め「腹斬る作法も知らぬ下種野郎」と罵られ 「やって見せてやる」と切腹騒動を起こしたことから「死損ね左之助」 など言われたが本人は「俺の腹は刃物の味を知っている」と自慢げに語ったそうだ 郷里で槍術を学び筋が良かったのか江戸に出て市谷柳町の試衛館道場を乙津れる頃には達人の域に達していた。 江戸での住所が不明である、試衛館で近藤らと意気投合し壬生浪士組の幹部となる 満州へ渡った生存説も有れば明治40年に松山に帰って来たという説もある。 靖共隊を立ち上げ上野彰義隊に加わり銃弾で戦死がもっともらしい。 |
服部武雄 | |
出身 | 播磨国赤穗 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保3年(1832)〜慶応3年(1867) |
よみ | |
愛刀 | |
役職 | 諸士取調役兼監察 |
お勧め映画 | なし |
慶応3年3月に伊東らと共に分離脱退し敵対する立場の御陵衛士となり11月の油小路事件で待ち伏せていた新選組数名を相手に 二刀をふるい奮闘したが原田左之助に突き殺されたそうだ (るろうに剣心 北海道編にも登場) |
安藤早太郎 | |
出身 | 出雲国母里 |
武芸・流派 | 応心流弓術・日置流竹林派・北辰一刀流剣術 |
生没年 | 文政4年(1821)〜元知元3年(18644) |
よみ | なんかいたろうともたか/ちょうそん |
愛刀 | 南海太郎朝臣朝尊 |
役職 | 組頭・副長助勤 |
お勧め映画 | なし |
江戸と国許弓術(射術)を修める。天保13年に奈良東大寺大仏殿で「通し矢」(奉納射)を行い全長 100m強の廊下を射場とし昼夜で1万本以上の矢を通して過去の記録を更新する(他に三十三間堂で行ったことでも有名)。 結果として早太郎は「射術の名人」と謳われるが慢心したため藩から蟄居を命じられる。 壬生浪士組に加入した時40代で隊ではかなり高齢だった。 池田屋事件では近藤勇隊に属したが極な屋内で負傷し療養に努めたが1ヵ月半後に没した。 得意の弓術の見せ場は無かったようだ。 |
松原忠司 | |
出身 | 播磨国小野 |
武芸・流派 | 柔術(関口流?) |
生没年 | 天保8(1837)年〜慶応元年(1865) |
よみ | かしゅうじゅうふじわらともしげ |
愛刀 | 加州重藤原知重 |
役職 | 組頭・副長助勤・柔術師範・4番組組長 |
お勧め映画 | なし |
播磨国小野藩士の家に生まれた松原忠司は安政の初め範から「徘徊御免」の処分を受け、事情は不明ながら領外へ追放される。 安政4年に大阪での柔術道場の経営を始め文久4年に壬生浪士組に加入する。8月の政変に出動した際、坊主頭に白鉢巻を締め 大薙刀を持った姿は武蔵坊弁慶を彷彿させたという池田屋事件では土方歳三隊に属し出動、11月の第1次行軍録では7番大砲組の組頭に就く 12月の長州征伐では軍資金調達のため勇、谷兄弟らと大阪に下がっている。 第1次行軍録作成から半年の間に失策を犯し切腹を企てるが傷が癒え隊に復帰したときは 小荷駄方の平隊士とされたが後に死亡する(傷の化膿が原因だったかもしれない)。 |
佐々木愛次郎 | |
出身 | 摂津国大阪 |
武芸・流派 | 柔術 |
生没年 | 弘化2(1845)年?〜文久3年(1863) |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし |
大阪の錺職人の息子として生まれ美男として評判が広まる、新選組美男5人衆の1人でありかつ悲惨な最期だったため 武はあまり秀でてなかった印象が持たれているが柔術の達人だった。壬生浪士組では突然決定した武術稽古に出たりしている。 先に悲惨な最期と記述したが町娘(あぐり・17歳)との悲恋である。出会ったのはおうむ鳥の見物に行き芹沢に罵倒を受けた香具師がお礼を と立ち寄った茶屋に居たのがあぐりであり自然な成り行きでひかれあった二人だったが「芹沢局長が見込んだらどうにもならない 仕方ないから本隊を脱走し女と逃げるがいい、でないと死ぬぞ」佐伯にそう吹き込まれあぐりと朱雀千本通に来ると 仲間と待ち伏せていた佐伯らに惨殺されあぐりもまた舌を噛み自害しはてた。佐々木は不意打ちで刀の束袋も取れずずたずたであったそうだ 蔵之充は池田谷騒動に出動している |
山崎丞 | ||
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出身 | 山城国京都 |
武芸・流派 | 長巻術・流派不詳 | |
生没年 | 天保5(1834)年?〜明治元年(1868) | |
よみ | ||
愛刀 | 不詳 | |
役職 | 小荷駄方・諸士調役・副長助勤 | |
お勧め映画 | なし | |
壬生に住んでいたことから新撰組との関係が生じ入隊、慶応元年5月西本願寺の屯所を訪れた 幕府典医松本良順は屯所が不衛生で病人が多かったことから山崎に救急治療法を授ける (緊急時の縫合術を伝授ともある)。 親より鍼医師をしていた為か開花したのであろう副長助勤に昇格し山崎は自らを 「我は新選組の医師なり」と語っている 。また山崎は幾つか記録をつけ残している、鳥羽伏見の戦いで弾丸を浴び重傷だが即死ではなく 大阪から江戸へ向かう富士山丸で船中死し水葬された。 |
〜中四国編〜
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竹内元太郎 | |
出身 | 備中国松山 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし |
池田谷騒動では土方隊に属し浪士潜伏先を検索した。新撰組は浪士9名を打ち取り20余名を捕縛し 天下に一躍その名をとどろかせた。事件後に金10両別段金5両が与えられ竹内の名が初めて記sれるのは この報奨金リストである。維新後はすっかり零落してしまい生活は苦しかったという。その為か明治3年 1月22日に石川武雄(変名)は勝海舟を訪ねて金を無心している。以後の消息は不明 |
倫堂貞三 | |
出身 | 伊予国西条 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・小荷駄方 |
お勧め映画 | なし |
元治元年6月(池田屋事件後)に応援派遣となる西本願寺の屯所へ勇らが国学者・矢野玄道収監、 倫堂は同じ伊予国のよしみも有りにも増して有為の学者として尊敬の念もあった為親身に玄道の便宜に人力を尽くし 勇に『穏便な処分を嘆願し』玄道は厄難を免れ軽微な謹慎にとどまる。 このような真摯な救援活動が彼に脱走を決断させるキッカケとなったようだ。 明治14年10月に高橋英金と改名した倫堂は西条に戻り教師になっていたらしい。 |
梅戸勝之進 | |
出身 | 伊予国松山 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・旗役、会津新撰組・駕籠役 |
お勧め映画 | なし |
慶応3年12月油小路花屋敷の天満屋騒動で頬を負傷。 鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に参戦。 会津まで転戦し明治元年10月仙台で降伏する。 油小路花屋敷の天満屋騒動の時休戦中の斎藤一を狙っている刺客に気付いた梅戸は 死客を後ろから羽交い締めにし斎藤を危機から救ったらしい。 梅戸ついに深手負いたす。斎藤、梅戸の為に切り抜ける」『浪士文久報国記事』 |
室宅之助 | 蟻通勘吾 | ||
出身 | 備中国松山 | 出身 | 讃岐国高松 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 天保10(1839)年〜明治19年(1869) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士、会津新撰組・什長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | 燃えよ剣 |
「新撰組人名録」には備中国松山出身とだけあり 三十郎の知人の可能性がある。 比較的長く滞在したが何にも伝わっていない 慶応3年12月以前に離隊し以後の消息は不明 |
池田谷騒動出動した隊士で函館まで行ったのは土方を除き島田・尾関・蟻通勘吾の3名であり勘吾は土方と同日(明治2年5月11日)に別な場所で戦死した。 |
柳田三次郎 | 馬越大太郎 | ||
出身 | 阿波国 | 出身 | 阿波国 |
武芸・流派 | 柔術 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 不詳 |
よみ | よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・柔術師範 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田谷騒動では屯所に残り参加していない、50位であり 自から「新撰組最年長者」と話したそうだ。 慶応7年に離隊し以後の消息は不明、柔術師範を務めた |
若年だった為か目覚ましい参戦記録や武勲の記録はとどめていない。隊中美男五人衆ともてはやされ表情はまるで若い女のようだが竹刀を執るとまるで別人だったそうだ。維新後横浜で硝子商人になったという。八木老人は『壬生ばなし』でその年(四十くらい)になっても全く見惚れるような美男で云々と語っている |
蟻通七五三之進 | 木下弥三郎 | ||
出身 | 讃岐国高松? | 出身 | 阿波国 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・田宮流 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 天保14年(1843)〜慶応4年(1868) |
よみ | よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 伍長・什長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
文久3年8月18日の政変に出動してるようだが以降の消息は不明。 一説によると近藤勇を倒そうと企てたが 見込みがないため四十数人が解散(脱退)したともある。 |
改称が木下巌であり慶応2年9月、三条制札事件に出動。鳥羽伏見戦争や甲州勝沼戦争に参戦。会津戦争期に母成峠の戦いで戦死。 |
神崎一二三 | |
出身 | 阿波国那賀郡 |
武芸・流派 | 剣術・神陰流 弓術・日置流雪管派 |
生没年 | 文政6年〜? |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 小荷駄方・勘定方・会計方・平隊士 |
お勧め映画 | なし |
江戸で入隊。鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還後離隊した。明治2年5月に京都で不審者として捕縛、以後の消息は不明 |
前野五郎 | |
出身 | 阿波国徳島 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 弘化2年(1845)〜明治25年(1892) |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・靖共隊・伍長 |
お勧め映画 | なし |
刀剣の鑑定に秀で、馬術に長けていたそうだ油小路花屋町の天満屋騒動に出動し、鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に参戦後、 靖共隊に加盟して北関東を転戦。その後降伏し薩摩郡付属となり。加納衣伊豆太郎に従う。維新後は札幌で貸座敷(女郎屋・遊女屋) を営むが明治5年の娼妓開放令に伴い名称を座敷屋とし建設労働者向けの女郎屋を経営しかなりの稼ぎがあったようだ。 択捉島に狩猟に出かけ小橋から転落した際に手にしていた銃が暴発したため即死した。 長倉新八は「年月不詳 北北海道千島殺害 前野五郎」と遺稿に記録する。 |
浅野薫 |
葛山武八郎 | ||
出身 | 安芸国広島 | 出身 | 丹波国広島 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 〜慶応3年天保14(1843) | 生没年 | 〜明治元年(1868) |
よみ | よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 軍事方・副長助勤 | 役職 | 平隊士伍長・諸士調役 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田谷騒動に出動慶応元年7月以前に除隊し対立立場となり葛野群川勝寺村で沖田総司に惨殺される | 池田谷騒動に出動するがその後高名となった近藤勇を批判し会津藩主に建白書を提出、近藤自からが作った非行五ヵ「条を上げ陳情した。和解は成立するが翌日葛山は前川邸にて切腹した(建白書の責任を誰より強く感じたのだろう) |
藤原和三郎 | 伊東主計 | ||
出身 | 備前国岡山 | 出身 | 備前国岡山 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 弘化3年(1846)〜? | 生没年 | 天保12(1841)年〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士、会津新撰組・什長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
江戸にて入隊しその時36歳、年長の方になる。 明治元年鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ帰還、 3月6日の勝沼の戦闘で負傷し甲州配走後に江戸にて脱走。 新撰組を離れると山谷で「和田屋」と称する町人となる。 しかし冬に兵部省軍務局糾問所に投獄され明治2年7月に 大鳥圭介の牢に移された。その後消息不明 |
慶応4年江戸で加入し三番に属して上洛する。翌5月に四番平士と記されるが慶応2年の山崎丞名簿に名前が無くその間に離隊したと思われる。 |
谷川辰蔵 | |
出身 | 備中国倉敷 |
武芸・流派 | 剣術・神道無念流 |
生没年 | 天保7年(1836)?〜明治27年(1894) |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし |
元知元年12月18日倉敷で「下津井屋事件」が起こり辰三はこれに巻き込まれる。(米高騰)大阪に出ると顔見知りの谷三十郎会い仲間の大阪城焼き討ちの陰謀を密告して新選組に加盟。維新後は倉敷で維新前の無断脱走を問われ謹慎を命じられ奈良県、境県などの下級官士となり、明治27年京都で没した。 |
安富才助 | |
出身 | 備中足守 |
武芸・流派 | 馬術・大坪流 |
生没年 | 天保10(1839)〜明治6(1873)5月28日 |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、伍長、馬術師範、諸士調役、勘定方、小荷駄方 会津新撰組・副長、軍目・函館新撰組体調代 函館政府・陸軍奉行添役、遊軍長 |
お勧め映画 | なし |
入隊後、函館戦争降伏まで新撰組を離れる事は無く数々を転戦 土方の信頼も厚く重要されていく。明治2年5月11日弁天台場奪還のため 出撃し土方の最後に立ち会う。土方の馬を五稜郭に牽いて帰り日野の実家に 土方の死を知らせ討死覚悟の決意と追悼の句を 早き瀬に 力足らぬや 下り鮎 と送りその翌日五稜郭首脳は降伏を決意した。 降伏後安富は弘前の耕春院で謹慎後足守藩に引き渡された。翌明治三年に放免 となりその後阿部十郎に惨殺されたとあるが真意は定かではない。 |
中村金吾 | 大槻銀蔵 | ||
出身 | 備中国 | 出身 | 備中国岡田 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・北辰一刀流、天然理心流 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 諸士調役、使番 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
文久3年8月下旬四条堀川の米屋に3人押し込み強盗が入ったと 通報があり壬生浪士組が駆けつける強盗は鉄砲を所持しており 発砲されるが残らず打ち取る。この時中村金吾が負傷したという。 池田屋事件では土方隊に属している。 慶応元年7月過ぎに離隊したと思われる。 |
元知2年7月禁門の変で鷹司家屋敷にの異変に気付いた大槻は敵が潜んでいると睨んで火を放った。逃げ出した長州兵を 会津兵が撃ったという。 脱藩後の辺名が露見したんか経緯は分からないが大槻は備後国に投獄され獄中死したと言う記録が残っている。 |
芦谷昇 |
村上清 | ||
出身 | 肥後国熊本 | 出身 | 肥後国熊本 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 〜明治元年(1868) |
よみ | よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 諸士調役 | 役職 | 平隊士伍長・諸士調役 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
元知元年7月に加入した三浦啓之助(佐久間恪二郎)と親しく2人は信州松本に行く。三浦の父象山が松本藩士だったためだろう。維新後は肥後国に戻り明治27年まで生存した | 明治元年1月、鳥羽伏見の戦いで重傷を負った村上は、7日に大阪へ退く。大阪城へ担ぎ込まれたが城外で発生した火事により城が延焼しそうになる。それを「官軍が来襲し火を放ったと誤認し城内は大混乱に陥り自刃する者が続出した。清志もまた足手まといになるのを嫌がり自刃した。 |
富山弥兵衛 |
尾形俊太郎 | ||
出身 | 薩摩国 | 出身 | 肥後国熊本 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 〜天保14(1843)〜明治元年(1868) | 生没年 | 不詳 |
よみ | よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・伍長・御陵衛士随従 | 役職 | 文学師範頭・諸士調役・副長助勤・五番隊組長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
富山弥平兵衛は新撰組の挙動を憎んだ薩摩藩が探索目的で入隊したらしい、剣術をよく使い力があって足が早く実地で能力を発揮するタイプだったようであり、油小路の変では二尺八寸の長刀を持って働いた。 隊を脱し薩摩藩に復帰し鳥羽伏見戦争に参戦 明治14年には埋葬地近くに神社が建てられ富山神社と命名された |
初期より 重用される。慶応4年の鳥羽伏見の戦いをへて、 江戸に帰還。同年8月の母成峠の戦いで敗走ののちに離隊した。隊の要職を歴任したことから、彼の優秀さや勤勉さが伺い知れる。 |
清原清 |
|
出身 | 肥後国熊本 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保3年(1832)〜慶応4年(1868) |
よみ | |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・砲術師範・御陵衛士 |
お勧め映画 | なし |
江戸で入隊、伊藤太甲子太郎ら気脈を通じ同3年3月の分離に同行しなかったが同年6月以前に脱走して御陵衛士に合流する。鳥羽伏見の戦い以降は薩摩郡に属し白河口の戦いで戦死した。 |
木村広太 | 岡戸万次郎 | ||
出身 | 筑後国久留米 | 出身 | 筑後国久留米 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・朝山一伝流 柔術・扱心流 |
生没年 | 弘化3年(1846)〜? | 生没年 | 天保12(1841〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
江戸にて入隊しその時36歳、年長の方になる。 明治元年鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ帰還、 3月6日の勝沼の戦闘で負傷し甲州配走後に江戸にて脱走。 新撰組を離れると山谷で「和田屋」と称する町人となる。 しかし冬に兵部省軍務局糾問所に投獄され明治2年7月に 大鳥圭介の牢に移された。その後消息不明 |
明治元年1月鳥羽伏見の戦いの後、新撰組が江戸に帰還すると同行するが、江戸で脱走する。そのごは消息不明だが、明治9年までに死亡したらしく板橋駅前の新撰組慰霊碑に刻銘されている |
新田虎之介 | |
出身 | 豊後国臼杵 |
武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし |
慶応元年4月江戸で加入し「土方(歳三)駕籠脇を務めて 上洛する。『英名録』にも記載されるが慶応2年冬の名簿には 登場せず、離隊したと思われる。 |
佐野牧太郎 | 木村良之助 | ||
出身 | 紀伊国 | 出身 | 紀伊国 |
武芸・流派 | 一刀流剣術 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保13年3年(1842)〜慶応元年(1864) | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・小荷駄方 | 役職 | 仮同士・平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
江戸にて入隊、京都市中の商屋から金を 騙し取った事が露見して、斬罪に処される |
慶応2年2月18日に小川佐太郎の埋葬を光縁寺に依頼している。が同2年の山崎丞名簿には登場せずその同年中に離隊したようだ。JR板橋駅前の新撰組殉難者墓碑に刻銘されてる事からその後に死去したものと考えられる。 |
矢田健之介 | 斯波緑之助 | ||
出身 | 紀伊国伊都郡 | 出身 | 紀伊国和歌山 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | ?〜慶応4年5月6日(1868) | 生没年 | 天保11年(1840)〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士・小荷駄方、靖共隊・士官取締 | 役職 | 仮同士・平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いを経て 江戸に帰還。3月の甲州勝沼戦争に敗れた のち長倉新八らの靖共隊に参加。 北関東を転戦後今市を探索中に銃撃され死亡した |
慶応元年4月江戸にて新選組に加入し五番に属し上洛する。 5月の山崎丞名簿では148人中110位で二番兵と記されるが 慶応2年冬の名簿では、不祥事を起こしたのか仮同士に降格している。戊辰正月、三十歳くらい、元僧侶なり出生地聞かず、文武とも劣等 と記録が残っている江戸帰還に同行し、江戸にて脱走 |
横倉甚五郎 | 浜本三郎 | ||
出身 | 伊勢国多摩郡堀之内村 | 出身 | 伊勢国 |
武芸・流派 | 剣術・天然理心流 | 武芸・流派 | 剣術・北辰一刀流 |
生没年 | 弘化3年(1846)〜? | 生没年 | 天保14(1843)〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士、伍長、勘定所 会津新撰組、什長 函館新撰組 | 役職 | 不詳 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
土方歳三に1ヵ月遅れて天然理心流・近藤周斎(義父) の元に入門する。勇が江戸の門下生ら隊士を募ったそうだ。 鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ帰還、勝沼の戦闘も敗戦 京都油小路で伊東甲子太郎殺害の件で天皇から寛大な裁きを受けのも 一時生き延びたが後の取り調べ最中に獄中で没した、拷問死かもしれない |
会津藩庁記録の二之印に 「北辰一刀流 生国伊勢 浜本三郎 二十二歳」と有る。他目立った記録は残っていない 新撰組は山崎丞名簿に名前が無いからか早期に離隊したものと推測している。 |
家里次郎 | 阿比留鋭三郎 | ||
出身 | 伊勢国松坂 | 出身 | 対馬国 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・北辰一刀流 |
生没年 | 天保10(1839)〜文久3年(1863) | 生没年 | 天保13(1842)〜文久3年4月6日 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 負傷 | 役職 | 不詳 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | 副長助勤 |
安政5年学問を志し江戸へでた家里は根岸有山の元に 訪れ一時期寄宿した縁もあり文久3年2月8日に浪士組上洛に 参加する。近藤派・芹沢派と当初より考えが異なり隊のイニシアチブ をめぐって対立する京都を去った家里は同士を求め京坂地区を奔走する。 大阪に現れたところを将軍警護中の芹沢らと遭遇し大阪常案橋会所にて 切腹となった。後に義兄の松オは尊王攘夷浪士に家を襲われ首を 三条川原に晒された。 |
平士として上洛するが京都残留を希望する、病気の為らしい。3月26日に浪士組と懇親した会津藩士は 「阿比留は大病に付き、江戸に両親あり候に付き 近々江戸表へ罷り下る。」と記録している。 それから2週間足らずの4月6日、重病を患う阿比留は 22歳でこの世を去る。 永倉新八は阿比留を副長助勤と期している。 |
木内峯太 | 宮武織蔵 | ||
出身 | 近江国 | 出身 | 近江国 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 天保8(1837)〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田谷騒動に出動、土方隊に属した。 後に新撰組を分離し伊東甲子太郎派 になった推測は成り立つ。慶応3年6月〜11月頃に脱走。 維新後はどういう経緯からか、 明治8年に京都府の8等警部に採用されている。 |
慶応元年4月、江戸で新撰組に加入し、三番に属して上洛する。慶応2年冬の名簿には登場せずそれまでに離隊したと思われる。 |
上坂甲太郎 | 宮川数馬 | ||
出身 | 近江国彦根 | 出身 | 近江国膳所 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | ?〜明治元年(1868) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田谷事変後に京坂募集組で、元知元年11月の 第1次行軍録では六番平士。 鳥羽伏見の戦いで敗れ上坂も江戸へ同行する。 『元新選組連盟』には「江戸にて永の暇」とあり、 円満に離隊したらしい。 |
池田谷事変後に京坂募集組で、元知元年11月の 第1次行軍録では六番平士。『元新選組連盟』では、 3日間の戦闘で「伏見にて討死」とする。が、近藤芳助は、5日の淀千両松の戦闘で、銃丸を受けて即死したと記す。 |
宿院良蔵 | 水口市松 | ||
出身 | 山城国京都 | 出身 | 山城国京都 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・一刀流 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 文政7年(1824)?〜明治元年(1868) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田谷騒動では土方隊に属し建白書の件で切腹した 葛山武八郎の遺体を谷三十郎と光縁寺に埋葬依頼に来ている。 明治元年1月の鳥羽伏見の戦いで「三日伏見にて戦死す」と記録される。 古参の中でも年配平士だった。 |
伊勢国小浜藩の側用人・藤田兵助の実子で、伊勢国津藩(藤堂家)に仕える。脱藩後は京に出て御室の 一刀流雨森道場に通う。医師・水口家の娘と知り合い、後に養子となる。慶応2年9月12日、三条制札事件に出動し12月に報奨金を授かる。かなり奮闘したらしい 明治元年1月鳥羽伏見の戦いが起こり5日の淀千両松の戦闘で戦死を遂げる。 |
御倉伊勢武 | 荒木田左馬之助 | ||
出身 | 山城国京都? | 出身 | 山城国京都? |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・一刀流 |
生没年 | 天保7(1836)〜文久3年(1863)9月26日 | 生没年 | 天保10(1839)〜文久3年(1863)9月26日 |
よみ | 不詳 | よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 周旋方、国事探偵方 | 役職 | 周旋方、国事探偵方 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
文久3年6月ごろ入隊。「長州藩の間者」だったと伝わり、 同9月25日荒木田左馬之助らと長倉新八、中村金吾の 暗殺を謀るが失敗。翌26日、結髪中に斎藤一に暗殺された |
「京都浪士 断首国事探偵方」と記録される。文久3年6月ごろ入隊、芹沢派に属した。が「長州藩の間者」とされ9月26日、結髪中に近藤派の藤堂平助によって刺し殺された。 在隊期間は3ヶ月で、24,25のお洒落な侍と伝えられる。 |
伊藤鉄五郎 | 伊藤浪之介 | ||
出身 | 山城国京都 | 出身 | 山城国京都 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | ?〜明治元3年(1868)5月1日 | 生没年 | 弘化3(1846)〜明治4年(1871)2月8日 |
よみ | 不詳 | よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、伍長会津新撰組・差図役、指令士 | 役職 | 周旋方、国事探偵方 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
7番大砲組の平士、鳥羽伏見の戦い後に 同機ははっきりしないが会津新撰組の指図役に就く。 白河城の攻防戦に参戦するがその最中5月1日に戦死を遂げる。 彼の死を悼んだ中島登は「伊藤鉄五郎、行歳二十九 山城京の産 にして、新撰組に同士しのち会津に来たり司令官の任を蒙り、白川 口辰五月朔日、攻城のとき死す」と記録している。 |
鳥羽伏見の混乱期に隊を脱し島原遊郭の愛妓の許を得て潜伏していた。諸所を流浪した彼は妻「小よう」をとり一女を設ける。借家住まいで生活が苦しい浪之介は常住院へ押し入り強盗を働き100両の金を奪って逃走する。しかし破戒僧が誤って 住職を殺害した為共犯者として浪之介も妻子の前で捕縛され 入牢するが明治4年2月に獄中で病死した |
中山重蔵 | 森鷹之助 | ||
出身 | 山城国京都 | 出身 | 山城国宇治郡山科 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 弘化3(1846)〜? | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、靖共隊・歩兵取締、函館新撰組・第四部隊平士 | 役職 | 平隊士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
中村喜二衛門の次男として京都に生まれる。 鳥羽伏見戦争で負傷。甲州勝沼戦争にも参戦。 江戸で離脱後に靖共隊、後に新選組に復帰し函館戦争を 戦い降伏する。 |
慶応元年5月の山崎丞名簿では、148人中141位で八番隊平士。7月頃に『英名録』にも記載されるが、慶応2年冬の名簿には登場せず、その間に離隊したようだ。 |
三品一郎 | 川島勝司 | ||
出身 | 山城国 | 出身 | 山城国川島村 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 棒術 |
生没年 | 弘化3(1846)〜? | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、靖共隊・歩兵取締、函館新撰組・第四部隊平士 | 役職 | 伍長、諸士調役、小荷駄方、使番、介人付 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
中村喜二衛門の次男として京都に生まれる。 鳥羽伏見戦争で負傷。甲州勝沼戦争にも参戦。 江戸で離脱後に靖共隊、後に新選組に復帰し函館戦争を 戦い降伏する。 |
元知元年6月の池田屋事変では事前の探索に活躍、当日は 土方隊に属し出動。後に恩賞金を受ける。 慶応元年以降に臆病であることから除隊処分となる。後に 隊名を騙り金策していたことが露見、捕らえられ坊主頭にされたうえ、二条河原で富山弥兵衛に断頭されている。 |
森下平作 | 矢金繁三 | |
出身 | 三河国 | 摂津国大阪 |
武芸・流派 | 不詳 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 不詳 |
よみ | ||
愛刀 | 不詳 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 平士 |
お勧め映画 | なし | なし |
明治元年1月の鳥羽伏見の戦い後江戸に帰還、同行するが 「江戸永の暇」とある。明治9年までに没したらしく新撰組慰霊碑には森本平八と変名で刻まれる。鳥羽伏見の戦い後で 重傷を負ったのかもしれない。 |
小荷駄方の平士、慶応2年2月18日には、死亡した 小川佐太郎の埋葬をする為木村良之助と光縁寺を 訪れ依頼している。 明治元年1月、鳥羽伏見の敗戦後江戸に帰還するが後に脱走する。以後の消息は不明 |
平山五郎 | 中条常八郎 | ||
出身 | 播磨郡姫路 | 出身 | 播磨国 |
武芸・流派 | 剣術・神道無念流 | 武芸・流派 | 剣術・神道無念流 |
生没年 | 文政12(1829)〜文久3年(1863) | 生没年 | 天保7年(1836)?〜明治27年(1894) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | |
役職 | 副長助勤 | 役職 | 平隊士、靖共隊・歩兵取締 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
文久3年2月、芹沢と共に浪士組に参加し上洛。 壬生浪士組の結成メンバーとなる。 国許で誤って火薬の爆発を起こし左目を失明したが剣の冴えは 変らなかったそうだ。 同年9月16日に芹沢と共に暗殺される。 |
慶応2年9月12日、三条制札事件に奮闘。翌3年12月7日、油小路花屋敷の天満屋騒動で腹部に軽傷。 鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に参戦後、江戸にて永倉新八・ 原田左之助らとともに近藤勇と快を分かち靖共隊を結成して 奥羽に転勤。以降の消息は不明 |
佐々木蔵之介 | 伊木八郎 | ||
出身 | 摂津国大阪 | 出身 | 摂津国大阪 |
武芸・流派 | 柔術 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
文久3年8月18日の政変に御所の南門前を 固める。元知元年6月の池田屋事件では土方隊 に属す。同年12月以前に消息を絶つ。 愛次郎と恐らく兄弟で慶応元年7月以前に離隊している。 |
元知元年6月、池田屋騒動は土方隊として出動、慶応2年 9月12日、三条制札事件に奮闘、明治元年1月の鳥羽伏見の戦いまでに京都にて脱走と記される。 |
辛島昇司 | 久米部正親 | ||
出身 | 摂津国大阪 | 出身 | 摂津国大阪 |
武芸・流派 | 柔術 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保5年〜 | 生没年 | 天保12年(1841)〜明治43年(1910) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、伍長 | 役職 | 平士、伍長、会津新撰組・軍目 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
慶応元年4月新撰組が江戸で隊士の2次募集を 行った際に入隊、同四年1月の鳥羽伏見の戦いに 敗走後に大阪で脱走。以後の消息は不明 |
鳥羽伏見の戦いで負傷。甲州勝沼戦争に参戦、 会津戦争に参戦、明治10年銚子で降伏す。 維新後は陸軍に出仕して中尉まで昇進。 仙台にて病死する |
江畑小太郎 | 日下部遠江 | ||
出身 | 摂津国(河内国とも) | 出身 | 摂津国大阪 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 不詳 | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平隊士、御陵衛士随従 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
慶応3年冬に御陵衛士残党に合流し 鳥羽伏見戦争では薩摩軍として参戦 一説に赤報隊に加入したとあるが裏付けは 取れない。 御陵衛士の生き残りで最も事績が分からないと 言われている。 |
日下部四郎とは親子か兄弟と考えられる 慶応元年5月の『山崎丞名簿』では148人中73位で 同年冬の名簿には登場せず、その間に離隊したようだ。 (とおとみと読む) |
日下部四郎 | 酒井兵庫 | ||
出身 | 摂津国 | 出身 | 摂津国住吉 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 弘化3(1846)〜? | 生没年 | 不詳 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士 | 役職 | 会計方・勘定方・小荷駄方 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
日下部遠江とは親子か兄弟と考えられる 慶応元年5月の『山崎丞名簿』では148人中74位で 同年冬の名簿には登場せず、その間に離隊したようだ |
池田屋事件では土方隊に属す第1次長州征伐で小荷駄雑具に配属される。慶応元年切腹した山南敬助(2月)大谷良輔(3月)施山多喜人&石川三郎(6月)の遺体を頼越人として光縁寺に埋葬依頼している。死を目の当たりにしてきた酒井は恐怖のあまり脱走し故郷の神社に潜んだが新選組に囲まれ「薩摩に内通した」として沖田らは切り伏せる。重症ながら致命傷は免れ一命は取り留めたが蘇生した酒井は、無数の刀痕を見て再び倒れ絶命した。 |