北日本
〜東北編〜
吉村貫一郎 | |
武芸・流派 | 新当流・北辰一刀流 |
生没年 | 天保11年(1840)〜明治元年(1868) |
よみ | やまとのかみやすさだ |
愛刀 | 大和守安定 |
役職 | 剣術師範・諸士調役 |
お勧め映画 | 壬生義士伝 |
剣術の使い手であったが鳥羽・伏見の戦いで消息は謎、永倉の同士連盟記には殺害されたとあり 島田魁らの名簿には脱走したとある。映画もそうだったが子母澤寛の新撰組物語にある南部藩邸に出頭し 帰藩を願ったが諫目られて切腹したのが有力、解釈なしだったという、南部の武士として最後まで義を貫いた |
司馬良作 | 鈴木長蔵 | ||
出身 | 陸奥国仙台 | 出身 | 陸奥国仙台 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保12年(1841)〜? | 生没年 | 天保5(1834)〜? |
よみ | 不詳 | よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士、文学師範 | 役職 | 壬生浪士組結成人 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
慶応元年4月江戸にて2次隊士募集で入隊し上洛する 『新撰組・始末記』には「隊士斯波良蔵は洋行を志す所ありて修行する暇を乞いて退去す」 とあり慶応3年6月頃までに円満に除隊したと思われる。 維新後は斯波有造と改名し、明治10年に岐阜県大書記官になったらしい。 |
文久3年3月15日の京都守護職訪問は病欠。 まもなく江戸に退去して新選組に入るがこちらも7月頃に離脱した。 |
大村安宅 | 上田末次 | ||
出身 | 陸奥国中村 | 出身 | 陸奥国盛岡 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保12年(1841)〜元知元年(1864) | 生没年 | 弘化3年(1846)〜 |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 不詳 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
入隊前は横浜外国人居留地警備の任にあった。 元知元年10月江戸にて入隊するが上洛途中で 同志が、横浜での攘夷の事(暴行事件)が露見して 幕府に捕縛されのちに切腹となり痛いは横浜に葬られた。 |
元盛岡藩浪士。入隊してまもなく脱走、仲間と名古屋布巾で金策する。伊東甲子太郎・島田魁らの追及を受けるが上手く逃走する。以後の消息は不明。 |
新井忠雄 | 白井鷹之進 | ||
出身 | 陸奥国磐城平 | 出身 | 陸奥国弘前 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・留田流 馬術・源家古伝 |
生没年 | 天保6年(1835)2月7日〜明治24年(1891)2月15日 | 生没年 | 弘天保10(1839)〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 仮同志、小荷駄方、平士、諸士調役(剣術師範頭)) | 役職 | 平士、伍長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
18歳で江戸に出た新井は酒を飲み始めた新井を止められる隊士は居なかったと伝えられており酔って戦闘に参加してた為勲章の判定が難しく一統に賞金を分配いただきたい の意を述べたとも記録されている。実際にかなりの活躍だったようだ、慶応3年に兵庫から九州へ出張し豊後国佐賀関に常陸しそこで伊東甲子太郎に会う、甲子太郎の信頼は厚く この時の新井を親しき友と唄に詠んでいる。鳥羽伏見の戦いでは生き延び 明治24年に東京で病死した。 |
江戸出身ともされる。慶応元年4月新撰組に加入し、翌5月に 三番伍長となるが、慶応2年冬の名簿には記載が無いため それまでに離隊したと思われる。 その後旧藩(弘前藩)に復帰し明治2年4月に官軍の一員として函館戦争に従軍した。 |
田村一郎 | 毛内有之助 | ||
出身 | 陸奥国磐城平 | 出身 | 陸奥国弘前 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保14年(1843)〜明治20年? | 生没年 | 天保6(1835)2月28日〜慶応3(1867) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士、会津新撰組・什長、歩兵指図役 函館新撰組・第三分隊平士 |
役職 | 平士、伍長 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
3兄弟の長男。清水家家臣・板橋徳蔵 の厄介となっていたところ新撰組の隊士募集があり 加入する。鳥羽伏見戦争に参戦、甲州勝沼戦争で負傷 会津転戦後本体に2ヶ月遅れて函館へ渡航する。明治2年5月弁天台場で降伏。 名古屋藩預けとなり謹慎、明治3年1月に放免され東京へ出る。 明治20年頃には東京市麹町区6番町に居住した |
津軽藩士3000石用人の毛内家の次男だが脱藩して新撰組隊士となる。「毛内の百人芸」と言われなんでも器用にこなした。 慶応3年3月に分離して御陵衛士となる。七条油小路で新選組の襲撃を受け戦死する。 |
加藤民弥 | 後藤大助 | ||
出身 | 陸奥国会津 | 出身 | 陸奥国磐常平 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 剣術・心道無念流 |
生没年 | 文政2年(1819)〜明治元年(1868)9月5日 | 生没年 | 天保6(1835)2月28日〜慶応3(1867) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 小荷駄方 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
池田屋事変後に民弥は人員不足がちな新撰組に会津 藩より一時派遣され元知元年11月の第1次行軍録では 小荷駄雑具の兵士と記録される。慶応元年4月に国許の 会津へ帰る、2次募集で隊士不足解消の目途がついたのだ。 明治元年8月29日50歳の民弥は会津郊外の戦闘で負傷し、 9月5日に会津若松城で没した。 |
伏見に近い巨椋池は禁漁区だったにもかかわらず新撰組だった後藤大助は魚を取り鳥を撃った。伏見奉行所同心が咎めると彼は納得せずk暴言を吐いた。駆けつけた横田蔵之介に説教されそれを恨んだ後藤は仲間2.3人と謀って凶行に及び横倉の首をええじゃないかの人々に紛れ武田街道の石橋に晒した。なぜか処分されることなく鳥羽伏見の戦いに従軍し薩摩藩に属したが「強盗を働き梟首」となる |
阿部十郎 | 小林佳之助 | ||
出身 | 出羽国由利郡羽広村 | 出身 | 陸奥国秋田 |
武芸・流派 | 剣術・直心流、槍術・種田流 | 武芸・流派 | 剣術・小野派一刀流 |
生没年 | 天保8年(1837)8月22日〜明治40年(1907)1月6日 | 生没年 | 弘化4年(1847)〜慶応4(1868) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士、伍長、御陵衛士 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
亀岡藩高野家の養子となる。大阪に出て谷万太郎の 門人となる。元知元年の池田谷騒動の前、芹沢鴨暗殺事件後に脱退する。 元知2年春に再入隊。慶応3年に分離して御陵衛士。 東京市下谷区にて病死した。 なぜか文久3年の入隊についてだけは認めようとし なかったそうだ。 |
慶応2年9月、三条制札事件に出動。鳥羽伏見戦争開戦前、 永倉新八の組下として伏見奉行所に駐屯する。御陵衛士残党(阿部十郎)との間の密書が発見され(隊の機密がほぼすべて書かれていたらしい)裏切り者として島田魁に絞殺された。 |
武藤又三郎 | 松浦多門 | ||
出身 | 陸奥国仙台 | 出身 | 出羽国庄内 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | 天保8年(1837)8月22日〜明治40年(1907)1月6日 | 生没年 | 天保14年頃〜? |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 平士 | 役職 | 平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
慶応元年5月の『山崎丞名簿では148人中序列140位』 で八番平士。『英名録』にも記載されるが、慶応元年2月の 冬の名簿には登場せず、その間に離隊したようだ。 |
元庄内脱藩浪士慶応元年上田末次と共に脱走して金策を働いたとされる。 |
茨木司 | 岩崎一郎 | ||
出身 | 陸奥国中村 | 出身 | 陸奥国盛岡 |
武芸・流派 | 不詳 | 武芸・流派 | 不詳 |
生没年 | ?〜慶応3年(1867)6月14日 | 生没年 | 天保15年(1844)〜明治4年(1871) |
よみ | 不詳 | よみ | |
愛刀 | 不詳 | 愛刀 | 不詳 |
役職 | 伍長、諸士調役 | 役職 | 仮同志、平士 |
お勧め映画 | なし | お勧め映画 | なし |
新撰組の幕臣取り立てに異議を唱え 離局を企てるが難航し、下立売新町の 会津藩邸使者の間にて自刃(切腹)する。 文武共に秀でる。 |
鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に重事後江戸にて脱走。沼津で元彰義隊の小林清五郎・村山正孝兄弟と争い殺害される。 |
稲次春之助 | |||
出身 | 陸奥国白河 | ||
武芸・流派 | 剣術・鏡新明智流 | ||
生没年 | 天保9(1838)〜? | ||
よみ | 不詳 | ||
愛刀 | 不詳 | ||
役職 | なし | ||
お勧め映画 | なし | ||
慶応元年江戸での隊士募集にあたり 加盟を申し込む。直後に離局したようで、 上洛名簿に名前が無い。その後の消息は不明。 |
〜東日本編〜(その他)〜