〜東日本編〜(元治年入隊士)〜



根岸有山 清水吾一
出身 武蔵国大里郡甲山村 出身 武蔵国埼玉郡羽生村
武芸・流派 剣術・北辰一刀流、甲源一刀流 武芸・流派 剣術・北辰一刀流
生没年 文化6(1809)11月27日〜明治23(1890)12月3日 生没年 天保7(1836)年〜明治5年(1872)5月11日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 壬生浪士組結成人・一番隊小頭 役職 壬生浪士組結成人
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
豪農家に生まれ幕府徴募の浪士組に参加して上洛、
芹沢鴨・近藤勇らと壬生浪士組を結成するが、
殺伐たる権力闘争を目の当たりにし江戸へ引き返す。
新撰組には加入するが再び脱退し郷里に帰る
小頭になったのは入隊後今日から江戸へ行く間であり
芹沢鴨や近藤一派との折り合いも良くなかったらしい
酒造家に生まれ根岸有山の甥であり壬生浪士組の方向性に疑問を持ち根岸に従い壬生浪士組を脱退する。
江戸の戻って新撰組に加盟し、その終焉まで在隊する。

遠藤丈庵 神代仁之助
出身 武蔵国忍 出身 常陸国水戸
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保10(1839)〜? 生没年 天保10(1839)年〜?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 壬生浪士組結成人 役職 壬生浪士組結成人
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
芹沢・近藤らと反りが合わず文久3年3月末期に根岸有山らとともに離脱。江戸で新撰組に入るが、9月に脱退する。 文久3年3月15日の京都守護職邸訪問は病欠。まもなく江戸に退去し新撰組に加入6月には新選組を去り7月下旬に京都へ舞い戻っている。

野口健司 平間重助
出身 常陸国水戸 出身 常陸国水戸
武芸・流派 不詳 武芸・流派 剣術・神道無念流
生没年 天保14年(1843)〜文久3(1863)年12月27日 生没年 文政7(1824)〜明治7(1874)8月22日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 壬生浪士組結成人→副長助勤(組頭) 役職 勘定方・勘定方・副長助勤
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
文久3年8月18日の政変は南門を警護した。芹沢鴨暗殺後、
ただ一人の水戸人として残るが、隊規に違反し安藤隼太郎の
解釈により切腹となった。
芹沢鴨に同行して上洛、常に行動を共にした。文久3年8月18日の政変に出動し南門を固めた。
芹沢暗殺投当夜は運良く助かったが責任を取らされることを恐れ脱走した。

佐伯又三郎 粕谷新五郎
出身 長門国(江戸とも) 出身 常陸国那珂郡野口平村
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?〜文久3(1863)8月10日 生没年 文政3(1820)年8月16日〜元治元年(1864)6月6日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 壬生浪士組結成人→副長助勤 役職 壬生浪士組結成人
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
芹沢鴨のお気に入りで、勘定方を任されていたが、
「うにこうる」の値付を盗んだことで千本朱雀野にて惨殺されたと言われる。だが真意は島原の女に迷って隊の公金を横領したことにからみ、佐々木愛次郎に罪をかぶせて殺害したことが発覚し激怒した芹沢に処断されたものらしい。
壬生浪士組結成まもなく脱走して江戸に戻る。元治元年、
天狗党の筑波山挙兵に参加。自刃して没す

殿内義雄 林信太朗
出身 常総国武射郡森村 出身 武蔵国
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保元年(1830)〜文久3年(1863) 生没年 ?〜明治元年(1868)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 壬生浪士組結成人 役職 諸士調役、行軍世話役、伍長・靖共隊・伍長、歩兵取締、
士官取締・新遊撃隊
お勧め映画 なし お勧め映画
元結藩・水野日向守の家臣。昌平覺に学んだインテリで、
家里次郎とともに京都残留浪士取りまとめ役を命じられる。
根岸有山によれば彼らが上位に位置するのを嫌った
芹沢鴨・近藤勇一派が四条橋上で殺害したらしい
文久3年8月18日の政変、池田谷騒動でに出動。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼戦争に従事後、江戸にて脱走。長倉新八・原田左之助らと靖共隊を結成して北関東から会津まで転戦。後に会津を離れ南下、剣見川付近んで久留米藩兵に打ち取られた。

島田魁
出身 美濃国厚見郡雄綱村
武芸・流派 剣術・心形一刀流 槍術・種田流(谷万太郎門人)
生没年 文政11年(1828)1月5日〜明治33年(1900)
よみ 不詳
愛刀 不詳
役職 諸士調役、伍長・旧幕府陸軍脱走・軍監・会津新撰組、軍目・函館新選組、差図役頭取(副小隊長)
お勧め映画 なし
文久3年8月の政変に御所の南門を固める、池田谷騒動、七条油小路における御陵衛士懺滅戦に出動。鳥羽伏見の戦いで敗北し江戸退却後に病院係。甲州勝沼戦争に従事後五兵衛新田、下総・流山に駐屯。会津戦争期に大谷池で足を負傷。
函館まで転戦して降伏。京都にて病死。

河合耆三郎 松井龍三郎
出身 播磨国加古郡高砂 出身 下野国宇都宮
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保9年(1838)〜慶応2年(1866)2月12日 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 勘定役(勘定方、勘定掛)会計方・小荷駄方・平士 役職 周旋方、国事探偵方
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
元治元年6月の池田谷騒動に出動。隊の公用金に不足が生じたため断頭。表沙汰にならぬよう実家(米屋)に都合してもらうよう頼んだが斬首して三日後に届き遺族は僧侶を先頭にジャランジャラン歩いたり埋葬された壬生村の墓地に別にもう一つ立派な墓碑を建てたそうだ。 文久3年8月18日の政変には出動したと考えられる。同年10月上旬頃、陣内における長州の間者一掃が行われ、長州間者とされ沖田総司と藤堂平助が斬りに向かうが逃走して行方をくらます。

山野八十八 尾関雅次郎
出身 加賀国大聖寺 出身 大和国高取
武芸・流派 剣術・不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保9年(1838)〜慶応2年(1866)2月12日 生没年 天保15(1844)〜明治25(1892)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 勘定役(勘定方、勘定掛)会計方・小荷駄方・平士 役職 諸士調役、旗役、伍長・会津新撰組、指図役、歩兵指図役
函館新選組・指図役
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
美男五人衆の中で唯一函館まで戦い抜いた隊士
土方歳三が函館から逃がした様だ。
維新後は京都・菊浜小学校の用務員となっていたところを娘に引き取られ楽隠居で生涯を終えたらしい。
尾関弥四郎の弟、文久3年8月18日の政変に際して、御所南門を警護。元治元年12月に隊旗を持って戦闘を行進する旗役をつとめる。
会津戦争期に大谷地村にて負傷。翌年5月函館の弁天台場で降伏した。

松本喜次郎 尾関弥四郎
出身 和泉国岸和田 出身 和泉国高取
武芸・流派 剣術・不詳 武芸・流派 不詳
生没年 弘化3年(1846)〜明治元年(1868)8月17日 生没年 天保2(1831)〜慶応元年(1865)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士、靖共隊・歩兵取締 役職 勘定方手附、小荷駄方、
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
池田谷騒動に出動。鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に従軍後、江戸を脱走し靖共隊の結成に参加する。後に新撰組に復帰したようだが、会津・三代で戦死とも、断首とも。 尾関雅次郎の兄、池田谷騒動では土方隊に属し屋外の守備をしたが元々事務方隊士として入隊したこともあり弟の雅次郎と違い指揮的役には付いていない。難病とされた病(心臓病か肺結核)のために除隊し大阪にて病死した。

三浦啓之助 安藤勇次郎
出身 信濃国松代 出身 和泉国高取
武芸・流派 剣術・不詳 武芸・流派 不詳
生没年 嘉永元(1848)11月11日〜明治10年(1877)2月26日 生没年 天保2(1831)〜慶応元年(1865)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士(客員)、馬験、小荷駄方 役職 勘定方手附、小荷駄方、
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
松代藩士・佐久間象山の次男、父が殺害されたことで仇討ちとして入隊象山が勝海舟の妹を嫁にしたことから勝海舟の甥に当り、居心地の良さから次第に増長して粗暴な振る舞いが目立つようになり脱走する。維新後は司法省に出仕えし、赴任先の松山で急死した。 尾関雅次郎の兄、池田谷騒動では土方隊に属し屋外の守備
をしたが元々事務方隊士として入隊したこともあり弟の雅次郎と違い指揮的役には付いていない。難病とされた病(心臓病か肺結核)のために除隊し大阪にて病死した。
岸島芳太郎 田中寅三
出身 丹後国宮津 出身 加賀国金沢
武芸・流派 剣術・不詳 武芸・流派 不詳
生没年 不詳 生没年 天保12(1841)〜慶応3年(1867)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士、勘定方、小荷駄方、歩兵頭 役職 平士、剣術師範頭
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
慶応3年11月18日七条油小路事件で負傷する。鳥羽伏見戦争甲州勝沼戦争に参戦。慶応4年春に江戸残留、彰義隊に関係したらしく原田左之助の戦死を妻まさに知らせる。 隊内屈指の撃剣家だったと言われる。また品行も方正であったが、過激な攘夷説を唱え隊を脱走して御陵衛士入りを図るが叶わず、京都・本満寺に潜伏してるところを発見され切腹となった

和田重郎 牧野源七郎
出身 若狭国小浜 出身 越前国
武芸・流派 剣術・不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?〜明治元年(1868)1月3日 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
池田屋事変後の京坂募集組で、元治元年11月第1次行軍録では、二番平士。翌慶応元年5月の山崎丞名簿では、1番平士とされる。明治元年1月、鳥羽伏見の戦いで戦死する。
「伏見にて討死」と『元新撰組連名』に記されている。
池田屋事変後の京坂募集組で、元治元年11月第1次行軍録では、和田と同じく二番平士。翌慶応元年5月の山崎丞名簿でも二番平士とされ慶応二年冬の名簿には登場せず、その間に離隊したと思われる。

金子次郎作 小原孔三
出身 武蔵国江戸 出身 武蔵国江戸
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 不詳 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士、伍長
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
池田屋事変後の京坂募集組で、元治元年11月第1次行軍録では、七番大砲組の平士。明治元年1月、新撰組が江戸に帰還した後「江戸にて脱走」とされる 池田屋事変後の京坂募集組で、元治元年11月第1次行軍録では、八番大砲組の平士慶応元年5月には3番平士となり慶応3年時には伍長に付いていたかも。明治元年1月、新撰組が江戸に帰還した後「江戸にて脱走」とされる

伊東甲子太郎
出身 常陸国新治郡志筑
武芸・流派 剣術・北辰一刀流、神道無念流
生没年 天保6(1835)〜慶応3年(1867)11月18日
よみ のうしゅうじゅうしずさぶろうかねうじ
愛刀 信州住志津三郎兼氏
役職 副長助勤、組頭、参謀、御陵衛士頭
お勧め映画 なし
江戸深川佐賀町に北辰一刀流の道場を構え、伊東誠一朗の養子となる。
慶応三年三月新撰組から分離して敵対関係の御陵衛士頭となるが、油小路通と木津屋橋通の辻付近で近藤ら新撰組の罠にはまり謀殺される

篠原泰之進 加納鷲男
出身 筑後国生葉郡高見村 出身 伊豆国加茂郡加納村
武芸・流派 柔術・良移心倒流、剣術・要心流、槍術・宝蔵院流 武芸・流派 剣術・北辰一刀流、槍術・大島流
生没年 文政11(1828)10月20日〜明治44年(1911年)6月13日 生没年 天保10年(1839)11月9日〜明治35年(1902)10月27日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 諸士調役、御陵衛士 役職 平士、伍長、御陵衛士
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
神奈川奉行所下支配で外国人居留置を警備中、乱暴を働いたイギリス人三名を縛り上げた新撰組からの分離を画策し御陵衛士となる。七条油小路事件後は薩摩藩に庇護を求め、鳥羽伏見戦争では中村半次郎の部隊で参戦。赤報隊に参画戊辰の役では軍曹として転戦、東京青山にて病死する
坂本龍馬暗殺は新撰組の原田左之助と第一に証言した。
神奈川奉行所下支配見廻方を辞して伊藤甲子太郎らと入隊し、慶応三年に分離して御陵衛士となる。七条油小路で新撰組の襲撃を受けるが、逃れて薩摩藩に属す。
偽名を用いて流山で投降した近藤勇の正体を看破した。

内海次郎 中西登
出身 武蔵国川越 出身 武蔵国川越
武芸・流派 剣術・北辰一刀流 武芸・流派 剣術・北辰一刀流
生没年 天保6(1835)?〜? 生没年 天保13年(1842)11月9日〜?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士、伍長
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
伊東大蔵(甲子太郎)道場の門弟。慶応2年6月脱走した同志の捕縛に出張。同年9月三条制札事件に出動し奮戦。慶応3年3月に分離して御陵衛士となる。七条油小路事件の復讐に療養中の沖田を斬りに行ったが伏見へ立った後だったが京都市中を騎行する近藤に会い薩摩藩邸でピストルを取って来ると馬上の近藤目掛けて発砲した。銃弾は近藤の右肩を貫き井上新左衛門らと馬丁を切り伏せた。 この事件で近藤を実質的な指揮官の座から引きずりおろしたと言う一点においては敵を打ったと言える。 元、伊藤甲子太郎道場の師範代とも。慶応元年5月に長州人・石津茂一郎の捕縛に出動御陵衛士の分離には同行せず
後日隊を脱する。阿部十郎は佐原太郎殺害犯の一人に中西を上げている。

佐野七五三之助 中西小六
出身 尾張国海東郡須成村 出身 江戸
武芸・流派 剣術・北辰一刀流 武芸・流派 不詳
生没年 天保5(1834)〜慶応3(1867) 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 不詳
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
慶応3年6月新撰組の幕臣取り立てに抗議して離局を企て御陵衛士へ転身をはかるが、挫折して京都守護職邸にて自刃。
見届けに来た大石鍬次郎にその脇差で斬りかかり傷を負わせ
志村武蔵にとどめを刺されるという壮絶な最期が伝わる。
元治元年10月、新撰組が一次募集を行った際に入隊を約束する。 上洛名簿には記されているが以降新撰組資料には現れていない。
元井和一郎 柴田小源太
出身 越後国刈羽郡柏崎 出身 下総国佐倉
武芸・流派 不詳 武芸・流派 柔術・要心流
生没年 天保14(1843)〜? 生没年 天保8(1837)〜?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 不詳 役職 不詳
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
神奈川奉行支配下見廻方となり、篠原泰乃進らと知り合い彼らと新選組隊士募集に応じたが加盟したものの上洛を断念したのか 慶応4年3月まで神奈川に勤務。その後「衝鋒隊」に加入し函館まで転戦。降伏後遠縁にあたる増上寺内隆崇院の僧を身元引受人として釈放されている。 神奈川奉行支配下で、外国人留置警備をやった篠原泰之進らの同僚江戸で入隊したがまもなく離局。

近藤芳助 大谷勇雄
出身 近江国坂田郡国友村(江戸?) 出身 相模国
武芸・流派 剣術・天然理心流、先意流 武芸・流派 剣術・天然理心流
生没年 天保14(1843)〜大正11年7月5日 生没年 天保4(1833)〜明治元年(1868)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士、伍長、勘定所 会津新撰組・升長、小隊頭 役職 不詳
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
鳥羽伏見戦争時に淀で重傷。甲州勝沼戦争に参戦。会津戦争期、母成峠の戦い後に隊を離れ仙台で降伏。
維新後に横浜で市議・県議に就任。同地にて病死した。
鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に従軍。江戸にて病死とも単に死すとのみ記録する資料あり。
小川一作 柴田彦三郎
出身 尾張国 出身 武蔵国江戸
武芸・流派 剣術・天然理心流 武芸・流派 剣術・甲源一刀流
生没年 天保14(1843)〜? 生没年 天保10(1839)〜慶応2年年(1866)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
元治元年10月、新選組が江戸で第1次募集を行った際に入隊、
上洛後、11月の第1次行軍録では、四番平士とされるが、翌慶応元年の山崎丞名簿には登場せず、入隊後、半年以内に離隊したようだ。
元一橋家の家臣。原口某と組んで金策をし人相書きにより捕縛され西本本願寺屯所で切腹を命じられた。

池田小三郎 沼尻小文吾
出身 武蔵国江戸 出身 上野国高崎
武芸・流派 剣術・一刀流 武芸・流派 剣術・奥山念流
生没年 天保14(1843)〜大正11年7月5日 生没年 天保6(1835)〜明治35年(1902)
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士、伍長、剣術師範 役職 平士、伍長
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
三条制札事件に出。鳥羽伏見戦争に参戦。淀・千両松で戦死したと近藤芳助言うが横倉甚五郎の甲州勝沼戦争で負傷し野州坂戸で死亡したとするのが正しい。 慶応2年2月12日、河合耆三郎の解釈を担当する(一太刀で斬れなかったとか鳥羽伏見戦争前に伏見奉行所駐屯所に、
しばしば市中で隊士が襲われたらしい。甲州勝沼戦争に従軍後江戸にて離隊したと言われるが明治元年10月に銚子で降伏したとも、明治35年に60歳で死去したとも伝わる。

小原険太郎 嶋田弥一郎
出身 武蔵国江戸 出身 加賀国
武芸・流派 剣術・田宮流 武芸・流派 剣術・小野派一刀流
生没年 天保10(1839)〜? 生没年 天保8(1837)〜?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 不詳 役職 不詳
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
上洛後名簿に名前が無く小原孔三と生年月日や経歴が一致することから孔三と改名したと見える。鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に参戦し負傷したらしい。慶応4年春に江戸で脱走。義兵を集め江戸防衛の準備を整える。函館脱走軍隊・二番小頭とあるが別人かもしれない。 元治元年10月に江戸で入隊するが翌11月の第1次行軍録には、その姓名がない。上洛しなかったか、上洛中・後に離隊したかいずれかだろう。
中村玄道 青柳牧太夫
出身 筑後国久留米 出身 武蔵国江戸
武芸・流派 馬術・人見流 武芸・流派 不詳
生没年 文政3(1820)〜? 生没年 天保9(1838)〜明治元年(1868)1月
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士・勘定方・小荷駄方 役職 平士・勘定方・小荷駄方
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
鳥羽伏見戦争、甲州勝沼戦争に従軍。江戸で離局後、娘婿が
新徴組隊士だったことから庄内に赴き後に病死した。
元、浅草三好町、一条殿家来。鳥羽伏見戦争時、慶応4年 1月6日に橋本で重傷。江戸退却の船中で死去した。
大阪で死亡・埋葬された説もある
楠小十郎 馬詰柳太郎
出身 京都s/o 出身 不詳
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 弘化4年(1847)?〜文久3年(1863)10月上旬 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 不詳 役職 不詳
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
文久3年8月18日の政変に出動その後桂小五郎によって送り込まれた為か長州の間者とみなされ原田左之助に屯所の門前で殺害される。
八木為三郎の談話によれば、亨年17歳で美男であった評判が伝わっている。壬生菜畑でいきなり斬りつけてきた原田左之助によって死すとも、捕らえられ屯所で原田が斬首ともある。
『壬生ばなし』で八木老人は楠の事を「如何にも弱弱しい人で、そして美男で、隊士中には珍しい優しい男です」と語っている
間詰勘助の息子で美男五人衆では間詰柳太郎として登場している。まことに綺麗な男だったが女の様に気が弱くそれでいて女好き、仲間の隊士とは飲まず近所の子守女を相手にしていたが孕まし騒動が起き居ずらくなって脱走。どうも、池田屋騒動当日は在隊していたが、屯所を出て祇園会所へ向かう途中親子で脱走したようだ。