人斬りと呼ばれ京を震撼させた4人
と1人
岡田以蔵(人斬り以蔵) | |
出身 | 備中土佐国 |
武芸・流派 | 我流 |
生没年 | 天保元年(1830)〜文久3年(1863) |
よみ | ひぜんただひろ |
愛刀 | 肥前忠広 |
役職 | |
お勧め映画 | IZO |
主な暗殺リスト 本間精一郎暗殺・多田帯刀暗殺・池内大学暗殺・吉田東洋暗殺 以蔵の我流の剣は、激しい上に速く、ハヤブサに例えられた。 暗殺に手を染めたが根は臆病だったという。 |
血に狂った狂気のテロリスト・剣以外に興味なし 土佐勤王党一員として多くの暗殺に手を染めた「人斬り以蔵」と呼ばれ京の街を震撼させた。独学で剣を学び、後に 小野派一刀流、鏡心明智流、直指流に入門したが学問には興味が無く免許皆伝とはならなかった。 土佐を脱藩して浪人となったが捕縛され投獄、拷問にかけられ全ての罪を白状し、打ち首となった |
中村半次郎(人斬り半次郎) | |
出身 | 薩摩国 |
武芸・流派 | 示現流 |
生没年 | 天保5年(1838)〜文久3年(1877) |
よみ | 不詳 |
愛刀 | 不詳 |
役職 | |
お勧め映画 | なし |
新撰組が恐れた実力者 示現流の名手でありその剣のあまりの凄まじさに、師は「もう教える事は無い」と言ったという。京に上り薩摩の倒幕運動に関わり活動し、その豪剣で京の新選組をもふるえ上がらせた。明治になると薩摩に戻り、西郷隆盛に従い西南戦争に参戦した。 |
田中新兵衛(人斬り新兵衛) 出身 薩摩藩 武芸・流派 剣術・小野派一刀流 生没年 天保3年(1832)〜文久3年(1863)7月11日 よみ 不詳 愛刀 不詳 役職 不詳 お勧め映画 なし 1862年8月15日、今太閤と呼ばれるほど勢力を振るっていた島田正辰を殺害する。これは続発する天誅の初めとなった。他にも多数暗殺を行ったとされ「人斬り新兵衛」の異名がある。朔平門外の変における姉小路公知暗殺容疑で捕縛され、取り調べ中に突如自刃した。
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川上彦斎 出身 肥後藩 武芸・流派 不詳 生没年 天保5年(1834・12月25日)〜明治43年(1872・1月13日) よみ 不詳 愛刀 不詳 役職 不詳 お勧め映画 なし 1864年8月12日に兵学者の佐久間象山を暗殺するなど、「人斬り彦斎」とも呼ばれ、他にも多数の暗殺を行ったとされる。明治維新後「高田源兵衛」と名を改め二卿事件への関与や広沢真臣暗殺の嫌疑を理由に捕縛され、斬首された。
大石鍬次郎(人斬り鍬次郎) 出身 武蔵国江戸 武芸・流派 剣術・小野派一刀流 生没年 天保9年(1839)〜明治3年(1870) よみ やまとのかみやすさだ 愛刀 大和守安定 役職 諸士調役 お勧め映画 なし 女性問題で脱藩し日野の加藤棟梁の下で大工職人だったという。慶応2年2月5日に松原通東洞院で広島藩士と口論におよび惨殺し、祇園で男と口論になり惨殺している。頭に来たら斬る以蔵とはまた違ったタイプだ。また今井某が実弟を殺していたことが分かり執念深く何年もその今井某を狙ったり近藤もほとほと困ってたそうだ。隊士としては三条制札事件や七条油小路花屋敷の天満屋騒動などの出動し、五稜郭衛士残党に捕縛され伊東甲子太郎殺害の容疑者として処刑された