~東日本編~(慶応年入隊士)~


《4月・京都にて》

 
大谷良輔 大橋半三郎
出身 河内国大縣郡法善寺村 出身 美濃国大垣
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保7(1836)~慶応元年(1865)3月4日 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士、仮同志、会津新撰組・什長下役、歩兵指図役
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
入隊間もなく切腹したらしい、山南啓介の処断と関連が? 慶応3年秋~冬頃平同志に昇格、鳥羽伏見戦争に参戦して重傷を負う。甲州勝沼戦争、会津戦争に従軍。明治10年に他の隊士22人と「新遊撃隊」を名乗り10月に仙台にて降伏。翌2年11月14日に岡田五郎と勝海舟を訪ね、3両の金を無心する。

甘地一撰 吉村新太郎
出身 常陸国土浦 出身 筑前国秋月
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 天保14(1843)~? 生没年 不詳
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士、会津新撰組・指図役、歩兵指図役
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
明治元年1月鳥羽伏見戦争に従軍し「5日淀において戦死」新撰組江戸期間後、元新撰組連盟はは江戸にて脱走とする。「近藤芳助書翰」に「甘地稔 戊辰正月 ニ十六歳位の人。並」と記す。 元筑前福岡藩馬廻組で伊藤清兵衛の家来。伊藤は200万石で、洲崎に住居があったと言われ、慶応元年に35歳で打首になっている。
よそ様な経緯で新撰組に加入した模様。鳥羽伏見戦争・甲州勝沼戦争と転戦し会津戦争期に慶応4年4月25日の白河関門の戦争で重傷を負い会津に残留した

斎藤清一郎 林庄吉
出身 武蔵国忍 出身 尾張国海西郡馬ヶ地村
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 不詳 生没年 弘化3年(1846)~?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士、仮同志 役職 平士、靖兵隊歩兵取締、伝習士官隊・士官
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
鳥羽伏見戦争・甲州勝沼戦争に従軍後、江戸にて脱走 元医生。鳥羽伏見戦争・甲州勝沼戦争に参戦後江戸にて脱走。
永倉新八・原田左之助らと靖兵隊を結成し江戸を脱し北関東から会津を経て別経路で函館まで転戦し降伏した。
降伏後の身柄は秋田藩に預けられた。

施山多喜人 小路平三郎
出身 上野国館林 出身 若狭国小浜
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?~慶応元年(1865)6月21日 生没年 弘化3年(1846)~?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 平士
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
以前の記録が無い事から布施鍋三郎が改名したと思われる。山崎丞名簿では148人中100位で切腹と記される。至った理由は町家の娘との密通。隊規犯せり叫弾の上隊中において切腹せしめられたり」と記されている。 慶応元年5月に長州人・石津茂一郎の捕縛に出動。後に病気の為
に同2年12月以前に暇となる。帰国後に罪を犯し、獄中で病死した。

市橋鎌吉 鈴木元
出身 尾張国(武蔵国江戸とも) 出身 上総国鶴舞
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?~慶応2年(1866)10月7日 生没年 天保15年~慶応4年1月5日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平同士 役職 平同志(剣術教授心得)
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
死亡原因は不明だが京都で死去し四条大宮の光縁寺に埋葬される。 慶応2年5月12日夜、魚棚烏丸西において山井三位の家来・森某と口論になり殺害する、短期で知られていた。鳥羽伏見戦争時に淀・千両松にて戦死となる。

島田幸之助 矢口健一郎
出身 越後国 出身 不詳
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?~慶応2年(1866)10月7日 生没年 ?~慶応3(1867)年4月29日
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平士 役職 同心物見、仮同志、平士
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
慶応元年5月の山崎丞名簿では148人中135位で小荷駄方の平士とされる。慶応3年6月の幕臣取立時も平士とされ、12月に新撰組が伏見奉行所へ移るまでに離隊したようだ。 文久3年8月禁門の変の後京都町奉行所では市内20余ヵ所の制札場に朝敵長州藩の罪状を弾劾する高札を掲げた。その矢先慶応2年8月三上大橋の制札場の高札が何者かに隅で黒く塗りつぶされ滅茶苦茶に破壊されたうえ鴨川の河原に捨てられる事件が起こった。新たな高札を立てたものの同じような事が相次いだ。
会津藩は新選組に警備を命じ9月12日の夜8名の土佐藩士が高札損壊にやって来新選組隊士と乱闘になり土佐藩士3名が死傷5名逃亡という結果になった、世に言う三条の札事件である。
同心物見を務めていた矢口は7両2分の褒章を賜った。
だが翌3年に死亡、隊規違反による切腹とも言われるが死因は不明である。

橋本皆助 佐久間顕助
出身 大和屋郡山 出身 武蔵国江戸
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 ?天保6年(1835)~明治4年(1871)4月16日 生没年 嘉永3(1850)~?
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 物見、仮同志、平士、御陵衛士 役職 仮同志、平士、回天隊・平士、函館新撰組・第ニ部隊嚮導役
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
郡山脱藩浪士。水戸天狗党の筑波山挙兵に馳せ参じる。後に京へ逃れ、新撰組の仮同志となり
慶応2年9月の三条制札事件で功績を認められ隊入りとなるが、翌3年に分離して御陵衛士となり8月に陸援隊に潜入して新政府軍の軍曹となるが、病死した。 
京都の料亭で殺害されたという説もある。
徳川家広敷番・戸村静一郎の甥。宿所は青山・長者ヶ丸。
鳥羽伏見戦争に参戦。以後、会津戦争の記録に登場せず、永倉新八も死んだと判断していたよう函館戦争で再び姿を現し、明治2年5月弁天台場にて降伏した。

藤沢彦次郎 吉村芳太郎
出身 武蔵国? 出身 越中国富山
武芸・流派 不詳 武芸・流派 不詳
生没年 不詳 生没年 天保10年(1839)4月1日~大正6年(1917)2月23
よみ 不詳 よみ 不詳
愛刀 不詳 愛刀 不詳
役職 平同士 役職 平士、会津新撰組・什長、大砲指図役
お勧め映画 なし お勧め映画 なし
慶応2年8月に藤沢が東下するとした大石鍬次郎の書簡があることから、この時に除隊となったと推測できる。戊辰の役では新政府軍に従軍したようだ。 鳥羽伏見戦争・甲州勝沼戦争・会津戦争に従軍。明治元年10月に仙台で降伏している。